緊張性の胃痛に襲われる

何故胃痛になったかといいますと、転職活動を並行してしようとしていたのですが、まだ書類も業界勉強も準備もなにも用意が無いまま面接を申し込んでしまいました。しかも、次の日に企業から連絡が来ていて面接が決まってしまったのです。

これにより私の緊張感は20000%ぐらいに跳ね上がり、何も手につかなくなってしまいました。心臓と胃が口から出てしまうのではないかというぐらいの緊張感で、勉強どころじゃないという常態になってしまったのです。

体調が悪いのに、ウツの波もあるのに、勉強もしなきゃいけないのに、朝起きれないのに、働くことなんて全く考えられないのに、なぜ面接の申し込みをしたのか???もう、目の前が真っ暗でした。そこで、私は準備をある程度進めなければということで焦って、面接の練習を想像したり、業界研究について自分がどれほどの優位性を持っているかという事を考え始め、そして、どうやってこの面接を上手く切り抜ける抜けるかということに力を使い始めました。

今から考えると「上手く切り抜ける」という考えがいけなかったのですが、当時の自分は「失敗してはいけない」という固定観念に取りつかれていました。そんな中私を救ってくれたのは、やはり、認知行動療法のカウンセラーの先生でした。

諦めかけた初めての模試

これは一つの精神修養でした。2月から本格的に勉強を始めたとはいえ、地味に7年は勉強をしていましたので、その成果が試されるチャンスでもあったわけです。ところが、問題に取り組んでみると難しいのなんの、全く分からないのです。自信をもってこれが合っていると思えた問題があったかどうか、計画・設備で絶望し、法規で諦めかけました。文字通り法令集をゴミ箱に叩き込んでアパートへ帰ってしまおうかと本気で思いました。

7年分の勉強は無駄だったと、この試験をパスすることは不可能だと決めつけようとしていました。実際この時の点数は後から採点した結果では80/125点程度でしたので、実は準合格圏という決して悪い結果に終わったわけではないのです。しかし、試験中は解けない問題にあまりに気を取られれていて、自分の出来ている問題を全く評価できていませんでした。よって、試験中は自分が出来ていないと思い込み、できる問題も取りこぼしてしまったりいました。

結局、泣きたい思いでしたが、最後まで解きました。ここで諦めなくて本当に良かったと思います。この試験で学んだのは最後までやりきる事でした。個々の結果が良いかどうかで物事を判断すると全体を見誤ります。結果がどうかという事よりも、最後まで問題を解くということが大事だったわけです。止めない、最後まで走りきる。そうすれば、結果は良くても悪くても、自分がやってきた通りに評価される。途中でやめてしまえばそれが評価される機会も消えてしまいます。

この時期に80点を取ったという事は私にとっては全く評価できることではありませんでした。合格基準ラインを超えていて欲しかったのです。これが私の負けず嫌いな心に火を点ける事になるのですが。しかし、今から考えてみると、この時期の80点は評価してあげるべきだったと思っています。もうちょっと落ち着いて勉強できたのではと思います。

それからこの日は朝9時30分から模試でしたので、とても眠かったと記憶しています。その当時、特定の日に早く起きるということは重労働でした。前日は余り寝れていなかったので、コンディション最悪の状態でどれぐらいの実力が出せるかという事の一つの試金石になったのではないかと思います。

厳しめの選択肢と自信

このころも体調が悪かったのですが、その中でもある程度勉強をしていました。体調が良くても悪くても、勉強はしたくないという事には違いがないので、本当に起きることが出来ない時や、ふさぎ込んでしまうような常態でなければ勉強をするようにしていました。

大きなウツの波には対応できませんでしたが、体調低め安定程度のウツでしたら勉強できる選択を取ることが出来るようになってきていたのだと思います。一週間をきれいに回すという事はこの時期には全く出来ていませんでした。大きなウツの波が来ると数日ガッサリ持っていかれてしまうといった具合で、6月末から始まる通学をうまく回すためにどうしたらいいだろうという事を心配していました。

体調が低め安定で勉強がなんとなくできているというのは、当時の自分としてはガッツリ一日勉強出来てクリアという目標設定をしていたので、非常に不本意であり、自己評価としては非常に低い毎日でした。しかし、後から考えてみると、この時期の低い体調でもきちんと勉強を押し進めていたというのは非常にその後の展開を優位に進められる要因になっていることが分かります。

この時の、余り気が向かない常態で、多少無理でも、ペースが遅くても、勉強するというスタンスがウツの中でも前進を妨げられず邁進できるいう強さと自信を与えてくれていたと思います。

3日倒れて二歩前進

このころは一週間おきぐらいに大きく体調を崩していました。何もできずに悶々とする3日間というのはザラにありまして、本当に安定しない日々でした。特に朝方からきちんとレンタルオフィスに行って勉強をして帰るというのがきちんとできた日はかなり少なかったと思います。

ただ、土曜日の認知行動療法のクラスにはきちんと行っていたと思います。そして、少しずつ、ウツに対するコントロール能力の理解を進めていました。又、リワークプログラムの運動がかなり効いていて、最初はかなり辛かったのですが、数をこなすにつれ段々と楽になり、また体を動かしたことで、前進の血流が良くなっているのが感じられ、日頃の生活に良い影響が出ていたと思います。

完全にうつのペースに持っていかれてしまうこともしばしばあり、認知行動療法のクラスの実践のチャンスはかなりあったと思うのですが、まだスキルの力が足りていなかったように思います。

この頃、おなかの具合もあまりよくない時があり、痔になってしまい、毎日の痛みに耐えかねて、嫌になることが多かったと思います。これは体調が悪い時は、酷くなるので、うつと痔のダブルパンチはかなり辛いものがありました。

認知行動療法との出会い

私が初めて認知行動療法のクラスを受けた時のテーマは、”「気分」に合わせた選択肢を用意する”でした。私はいつもウツの気分で朝だるかったりして起きられない事を挙げ、そういう場合にどうしたら良いかをカウンセラーの先生に尋ねました。答えは明確でした。

先生の口から出た言葉を正確に記憶はしていませんが、趣旨は、”ウツの気分の隷従にならない。そして、生活リズムの完全崩壊を許容しない”という考えでした。

それは私にとっては、全く新しい物でした。頭を殴られたような衝撃を受けました。

私は今までウツの気分によって自分の行動を左右されていました。体調によって自分がしたいかしたくないかということに気を取られ過ぎていました。カウンセラーの先生はそんなことは関係ないと。ウツの気分が発生した場合、ウツに隷属的でない「行動」を選択する自由が人間にはあると、ウツであっても選択肢に幅があるという事を教えてくれました。

また、ウツがやってくると私は何もできなくなり、生活リズムは乱れてしまっていましたが、それも許さないという姿勢に驚きました。

この先の詳しい内容は認知行動療法のページで紹介しますが、この最初のたった一回のクラスだけで、私は認知行動療法に心を奪われました。

ウツに隷属的でない「行動」の選択権、ウツに自分の主導権を握られてしまっているという見方は、過去8年間全く考えもしなかったコンセプトであり、その物事の考え方にとてつもない可能性と魅力を感じたのです。

それからほぼ毎週、私は他の予定が許す限り、体調に関係なく、認知行動療法に通い始めました。

リワークプログラムは有効

私が見つけたリワークプログラムには運動の様なものがありました。その頃、私は集団認知行動療法なるものが何なのか全く知らなかったので、全く目を惹かず、私にとって魅力的だったのは、運動ができる事と、人と話すことが出来る環境でした。よって私が集団認知行動療法のクラスを受ける事になったのは全くの偶然です。

以前、認知療法の本を読んだことがありましたが、余り私の記憶に残っておらず、読んだのが認知療法の本だということも忘れていました。たまたまリワークプログラム担当カウンセラーの先生のお勧めの療法だということでクラスを受ける事になり、週数回リワークプログラムに参加することになりました。

これはレンタルオフィスにて試験勉強をしながら、リワークにも通うという何やら無理のごり押しみたいなことを始めてしまったと思いましたが、全く逆でした。むしろ、この時期に私が必要としていたのは、試験勉強よりも、リワークプログラムの、運動と集団認知行動療法のクラスでした。

リワークプログラムに通うようになって初めてからというもの、だいぶ人と話すようになり、私の会話チャンネル不足問題は解消したのでした。

最後のパニックアタック

私がパニックアタックに見舞われたのはサインバルタの20mgを0にしてから4日後ぐらいでした。もともと焦燥感を強く感じていて、かつ不安感が強く安定しないと思っていた矢先の減薬でした、そもそも、そういう状況で減薬するのが間違いだったのですが、当時は早く抗うつ剤を引いてしまいたいという間違った思考をしていたので、早めの減薬に踏み切りました。全くお勧めしませんので真似をしないでください。

引き始め3日までは割と順調に行っていたのですが、その日私は気分が少し高揚していて、様々な考えが頭をめぐり、ありもしない転職の面接練習を一人で何度も頭の中で行っていました。夜になって突然、思い立ったようにツタヤに行き、この時点で、普段と違うので何かおかしいと思うべきでしたが、映画を借りてきてアパートで見始めました、映画は古い映画でしたが、私はストーリーの割にかなり切羽詰まる感覚があり、映画に感情移入しすぎてしまったかと思いました。

途中で、余りに気分が落ち着かないため、一度、お風呂に入って落ち着こうとしました。脱衣所で服を脱いでお風呂場でシャワーを浴び始めた瞬間に、突然、呼吸が乱れ、お風呂の空間が突然狭くなったような気分になり、私はその場でパニックになりました。胸の鼓動がかなり早くなっていて自分ではコントロールできません。

落ち着こうとしますが、それとは逆にどんどん追い詰めれていく気がします。気分は悪くなる一方で、頭の中は混乱してしまってどうやってこの状態から逃れてよいか判断が全くできません。風呂場に素っ裸でいるということで、救急を呼ぶということもできず、取り合えず風呂場を出て、服を着ようと思いました。

部屋に戻って携帯を手にしましたがどうしてよいか分からず、取り急ぎ主治医のいる病院に電話をしました、幸いまだ電話口の対応がある時間帯でしたので、近所の病院の救急窓口がある電話番号を教えてもらい、電話を掛けました。その間も動悸とパニックは収まらず、私は床に腹ばいになって必死で電話のボタンを押していました。電話はつながったのですが、どうやら私の部屋は電波が悪いようで、私の声が聞き取りづらいらしく、救急に電話をするかどうかの相談が全く相手に伝わりません。

頑張って話をしようとしているうちに、眠剤を飲めば良いかもしれないと思い始め、何とか起き上がり眠剤の夜の分を早めに飲んで、床でひたすら眠れるまでパニックに耐えました。次の日はやはり不安定でしたが、パニックというほどでもなく、主治医にコンタクトを取り、パニックになった旨を伝え、その時はサインバルタを20mg頓服すればよいとの事、また、隔日で飲むようにするなどの今後の対策を練り、落ち着きました。

その後はかなり気を付けて薬のコントロールを行ったので、パニックになることは無くなり、無理な減薬は非常に危険だという事を思い知りました。

メンタルクライシス

体調は悪い中、朝からレンタルオフィスに通うようになりますが、何もできない日が続くときもあり、なかなか安定しません。

そして、人と話すことが再び全くなくなってしまったある日、私は2度目のメンタルクライシスを経験します。苛々が抑えられなくなってしまい、自分の感情のコントロールを失ってまたディスプレイに当たってしまったのです。

これで、私は今年通算で2度ディスプレイを駄目にするという大失態を演じてしまいます。これは非常に金銭的にも精神的にもインパクトが強く、このままでは自分のコントロールを失ってしまうのではと恐れました。

その頃ちょうど抗うつ剤のサインバルタの最後の20mgを引くという難しい局面に差しかかっていて、体調がかなり揺れていました。かなり焦燥感が強く、落ち着かない気分になっていて、少しどうかすると「気が触れてしまうのではないか」という強迫観念に襲われることも(そんな事は決して起きないのですが、、、)しばしばありました。

最後のパニックアタック

もはや社会とのつながりが通院とレンタルオフィスだけ(少なくとも繋がりはできているものの)というのが非常に心細くなってきました。

そんな中、同様の状況に陥っている人は社会にいないのだろうかという疑問が自分の中に生まれ、うつ病で職を失っている人が行くところは無いのだろうかと、ネットで検索を始めました。

そこで見つけたのはとある医療機関のリワークプログラムでした。

リワークプログラム

レンタルオフィス

図書館、カフェ、バーを通して、少し外出ということに対しての抵抗力をつけた私は、次は勉強により集中できる環境、そして、コストパフォーマンスということを考え始めます。

カフェは例えば2時間ごとに一回程度注文しないとなんだか申し訳ない気分になるので、例えば4時間勉強するといった時に、かなりコストパフォーマンスが悪いということになります。

そこでいろいろリサーチをするうちに見つけたのがレンタルオフィスです。主に起業をされる方が中心に使われるようなのですが、私は勉強と、会話をすることが目的でした。

そして、試験前の予備校通いも想定して、朝から通うという事を義務づけようと、無理に朝から起きるという事も始めました。

レンタルオフィス初日、私は朝から無理やり7時30分に起き、酷い体調で行ったことのないレンタルオフィスへ向かいました。

その日は朝食を食べた後に、歯磨きをする気力がなく家を出てしまい、あまり人とは会話をしたくなかったため、レンタルオフィスの受付での会話はしどろもどろでした。

共有スペースのようなところでラップトップと教材を広げ、席に座りましたが、眠気に襲われ、眠気を我慢するだけで何もできないという苦痛の一日でした。その日は朝から夕方までオフィスにいましたが、全く人と会話もせず、ただ睡魔と闘ってアパートに帰ってくるだけでした。

しかし、通常の社会人と同じスケジュールで外にいるという試みはこの数ヶ月で初めてで、それが非常に難しいという事に危機感を覚えました。

しかし、同時に少なくとも、これを続けて、社会に戻るペースを確立するのだという、自分の想いは強くなっていき、次の日も、私はレンタルオフィスへと通い始めました。

メンタルクライシス

予備校に行く決心

たまに外に出てはカフェで参考書を開き、又、外に出れない日は家で少し勉強するといった具合に、少し勉強が進むようになりました。

もちろん、体調が悪くて何もできない日と半々程度の割合だと思いますが、勉強が進む日というのもあり、次第に、勉強するということが辛いチョイスとして常態的に日常生活の中で存在感を発揮し始めていました。

勉強が進んで気付いたことがありました。うつ病とはあまり関係のない事ですが、建築法規の法改正というのがここ数年間の間にあり、建築士の資格勉強の過去問が現状の法規に対応していないということに気づいたのです。

これは非常にまずい事で、過去問が対応していないということになると、どうやって資格勉強をしていいかの指針を失ってしまうということになります。

そこで、私は予備校に問い合わせ、なんとか教材を手に入れられないかと打診し、最終的には、有料の教材を購入し、かつ、試験直前には予備校に通うというコースを申し込むというかなりその頃の体調ではほぼ不可能と思われる選択をしてしまいました。

これによって、私は6月末までに、何回かの模試で教材のみの独学で良い点を取り、かつ予備校に通える程度まで体調を回復させなければならないという、ハードルを自らに課すことになってしまいました。

当然、その頃、全くそれができるという見込みはなかったのですが、間違った過去問を説くよりかはましな選択であるように感じたのです。ここから自分の、生活に鞭が入ります。

レンタルオフィス